いわて県南の旅・web情報誌 ゆいたび

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歴史を知って濃ゆい旅

旅する前に知っておきたいのが平泉の歴史。それを知らずして、平泉は歩けないと言っても過言ではないでしょう。というのも、岩手の歴史文化の価値は、過去やその奥底にある思想的な部分と、みちのくの大地に仏教文化を築き上げた奥州藤原氏の存在です。では、800年前にこの地で何が起こったのかを、平泉郷土館長・盛岡大学文学部教授の大矢邦宣さんに教えていただきましょう。

(写真/義経が命を落とした高館から、北上川と束稲山を望む。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」と芭蕉が詠んだ風景)
薬師如来坐像(黒石寺)
写真:黒石寺提供

■豊かなみちのくと「征夷」

 日本一古い年号のある木彫の仏像が、どこにおわすか、ご存じでしょうか? 
 奈良でも、京都でもありません。意外や意外、「エミシ(蝦夷)」の地と蔑まれていたわが岩手県なのです。奥州市黒石寺の薬師如来坐像(重要文化財)。平安時代前期の「貞観(じようがん)4年(862年)」、平泉の時代より250年以上も前の仏像です。岩手県は「平安仏の宝庫」として有名です。古代日本の北端にありながら、早くから豊かな文化が栄えていました。その基盤は、砂金や馬をはじめとする、みちのくの豊かな特産物でした。その富を狙って奈良時代から何度も何度も、中央政府による「エミシ征討(征夷)」が行われました。「平泉」が生まれる背景には、みちのくの豊かな富と、度重なる征夷・戦乱の悲哀の歴史がありました。

■清衡(1056-1128)の登場・みちのくの宿命を負って

 平泉を築いた藤原清衡のドラマチックな生涯は、正にこのような「みちのくの宿命」を一身に負ったものでした。清衡が生まれたとき前九年合戦(1051-62年)の真っ最中、岩手の豪族安倍氏と政府側の源頼義将軍とが戦いを繰り広げていました。安倍氏の娘婿となっていた父経清は、国の役人にもかかわらず安倍氏に加わったため、惨刑に処せられました。このとき清衡は7歳、母とともに敵方に加勢した清原氏(秋田県の豪族)に引き渡され、30歳頃まで不遇の前半生を過ごしました。その清原氏の一族争いから後三年合戦(1083-87年)が起こり、清衡は異父弟・家衡と戦う中で、妻子が犠牲になるという不幸も味わっています。この二つの戦いを生き抜いた清衡は、東北北部の実質的支配者になりましたが、その代償として肉親や一族縁者を全て失うという、深い悲しみを味わうことになりました。

■みちのくの中央・平泉・中尊寺

金色堂
©中尊寺

 清衡は、自身の不幸な原体験とみちのくの悲哀の歴史とを重ね合わせ、中央からの差別と搾取が続くかぎり、みちのくに究極の平和が実現されないことを悟り、平泉と平泉文化の建設に取りかかりました。豊田館(奥州市江刺区)から平泉に移転したのは、1100年頃のことでした。清衡の決意は、平泉の地の選定そのものにはっきり見て取ることができます。清衡はこの地が「みちのくの中央」であることを知っていました。そのことを内外に知らしめるために建立したのが「中尊寺」です。清衡は、みちのくを南北に貫く縦貫道を整備し、一町(約109m)ごとに塔婆を立て並べ、その中央に当たる地点に「みちのく中央の尊いお寺」・中尊寺を建立しました(吾妻鏡)。みちのくの中央を拠点としたことは、「北方の王者」の宣言に等しいものでした。

 そして平和実現の具体的な手段が「平泉文化」でした。清衡は、都から多くの僧侶や一級の仏師、工人を招いて、中尊寺に壮麗な堂塔を次々と建立しました。百体釈迦堂や、9メートルもの大阿弥陀仏を中心とした二階大堂、類例のないまばゆく輝く金色堂(1124年)、そして最晩年には鎮護国家を祈願した大伽藍(1126年、本尊釈迦如来)を建立しています。清衡がよりどころにしたのは「法華経」でした。都からの差別・蔑視を取り除くためには、都に負けない一級の文化とともに、「法華経」の平等思想が不可欠だったのです。

■二代基衡( ?-1157)と三代秀衡( ?-1187)

 基衡の時代は金の産出量が最も多く、平泉の最盛期でした。基衡は平泉の南の玄関口に、都で流行していた浄土庭園形式の毛越寺(本尊薬師如来)を建立して平泉の威容を整え、都との交流も一段と活発になり、西行法師が最初に訪れたのもこの時代でした。

 三代秀衡は、現地人としては異例の鎮守府将軍や陸奥守に任命され、名実ともに「北方の王者」としてその栄華は全国に知れ渡り、各地に秀衡伝説が残されています。また、秀衡は宇治平等院鳳凰堂を模した無量光院(本尊阿弥陀如来)を建立し、ここに釈迦浄土(中尊寺)、薬師浄土(毛越寺)、阿弥陀浄土(無量光院)という仏教の代表的な浄土が、政庁や邸宅とともに相接する平泉独特の浄土景観が完成しました。

■四代泰衡(-1189)と平泉の滅亡

 しかし、時代は「武士の世」へと急速に動いていました。平氏と源氏の争い、それに王朝国家を維持しようとする貴族勢力がからむ政治状況は、都から遠く離れたみちのくをも巻き込まずにはおきませんでした。特に、源頼朝は「武家の棟梁」の根源を「征夷大将軍」に求め、エミシ(蝦夷)の地を支配する平泉の征服を早くから狙っていました。頼朝に追われた義経が平泉の秀衡を頼ったのは、絶好の口実となりました。秀衡の病没後、頼朝は四代泰衡に圧力をかけて義経を襲わせたうえで、1189年(文治5年)、自ら大軍を率いて平泉を滅ぼしました。この時、泰衡は平泉を戦場とせず、父祖が築き上げた平泉文化を後世に残す役割を果たしました。

毛越寺 浄土庭園
毛越寺 浄土庭園

■平泉文化の意義・文化による平和

 平泉文化は、基本的に都風の文化です。しかし、藤原三代がめざしたものは単なる都の模倣ではありませんでした。一流の芸術家や技師、デザイン、そして材料までものほとんどを都から導入しながら、作り上げたのは都にはない独創的・先進的なものでした。その代表はやはり金色堂です。皆金色のお堂に、金銀・螺鈿・蒔絵の内陣という、輝光の荘厳に徹したお堂は類例のないものでした。また、金字と銀字で1行ずつ書き分けた華麗な「紺紙金銀字交書一切経」(国宝中尊寺経)は、わが国唯一のもので、中国五台山の様式をいち早く取り入れたものとして注目されます。このように平泉文化が都の文化を基盤にしながらも、強い独創性・先進性にあふれているのは、都からの偏見・蔑視を「文化の力」によって取り除き、みちのくに恒久的な平和をもたらそうとしたためでしょう。

 平泉にとって「浄土」とは決して「あの世」のことではありませんでした。みちのくの「この世」を平等な平和な世界にすること、それが清衡以来の藤原四代の悲願でした。平泉が寺院境内だけでなく、地域全体が「浄土思想を基調とする文化的景観」であるのは正にその精神のたまものでしょう。また、みちのく全体が「浄土の景観」ともいえるでしょう。

【ちょっと足を伸ばして「骨寺村荘園遺跡」へ】

 一関市厳美町本寺地区の「骨寺村荘園遺跡」は、平泉の遺産のひとつ。ここは、中尊寺の経蔵を維持するための費用をまかない、寺の経済を支えた荘園の遺跡です。一見すると、どこにでもある普通の農村風景のようですが、実は14世紀の古絵地図とほぼ近い形で残されている場所。絵図に描かれた山や川、水田や仏神などがほとんど残っているという珍しい地区で、世界的にも注目を集めています

現在のようす
現在のようす
14世紀の古地図
©中尊寺