
今から約1200年前に暴虐の限りを尽くした悪路王が立てこもった達谷窟。今では、争いが起こった場所とは思えない程の静けさを誇る神聖な場所です。時代が変わり、いろいろな物事が変化していく中で、達谷窟だけは古の教えと想いを守り継いでいます。
暴虐の限りを尽くした悪路王と、それを打ち破った坂上田村麻呂公。「田村信仰」発祥の地といわれる達谷窟毘沙門堂は、仏に守られた聖地に立っています。
毛越寺から西へ車で15分。達谷窟毘沙門堂までの道のりは、のどかで昔ながらの田園風景が続き、車窓から望む四季折々の美しい表情はさながら日本の原風景。ノスタルジックな里山に目を奪われます。
達谷窟毘沙門堂の参道に立つと、三つの鳥居が見えてきます。「お寺なのか神社なのかとよく聞かれますが、江戸時代まではどこの社寺でも神と仏を一緒に祀っていたんですよ」と、達谷西光寺別當・達谷窟敬祐さんは話します。
ここは、達谷窟毘沙門堂を根本道場として、神域に建つ諸堂と別當の達谷西光寺境内の諸堂、そして鎮守社からなる神仏混淆の社寺。明治維新後に発令された廃仏毀釈も乗り越えて、昔のままの信仰体系が残る珍しい場所なのです。

1200年も昔、達谷窟に塞を構え暴虐の限りを尽くしたという悪路王を、征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂公が激戦の末打ち破りました。戦勝は毘沙門天のご加護と感じた田村麻呂公は、京都・清水寺の舞台を真似た精舎を建て、108体の毘沙門天を祀りました。
そして翌年の延暦21年(802年)、別當寺として「達谷西光寺」を創建。神武天皇の時代から続く史料「公卿補任」に、「毘沙門天ノ化身来タリテ我国ヲ護ル」とあるように、「田村信仰」発祥の地として国の史跡に指定され、現在も参拝者が後を絶ちません。
境内奥の壁面には、「岩面大仏」の姿が刻まれていますが、これは源義家公が毘沙門堂に参詣した際に、馬上より弓張で彫り付けたといわれています。しかし、この地を訪れたのは、義家公だけではありません。文治5年(1189年)には、奥州合戦の帰路の源頼朝公が毘沙門堂に参詣したと「吾妻鏡」に記されています。それ以降も、「田村三代記」、「鹿嶋合戦」、「神道集」などの中世文学をはじめ、日本国中の社寺縁起に達谷窟の名が記され、古来より著名な奥州鎮護の社寺として広く知られていたことがわかります。

達谷窟毘沙門堂の参道を抜けると、まず目に飛び込んで来るのが岩にめり込むように建てられた毘沙門堂。高々と聳え立つ岩の巨塊の迫力と、清水寺の面影が強い堂の一体化には圧倒されます。
毘沙門堂のお堂の下は聖地となっていて、現在も人の立ち入りが禁じられています。それには古から伝わる理由がありました。
「ここは、合戦に敗れた武士がしばし身を隠し、後に生まれ変わって出て行く“再生の場所”です。ご先祖様の霊魂もあの世から戻ってきたときにこの地に集うので、聖地として立ち入りを禁じています」と、達谷窟さん。その昔は諸国行脚の遊行の聖や山伏などが休める安住の宿としても開放されていたようです。
毘沙門堂内陣の扉の奥に祀られた本尊は、慈覺大師が毘沙門天の化現である坂上田村麻呂公の顔を模して彫り上げたといわれる秘仏で、33年に一度開帳されます。次回は平成22年に開かれる予定です。
達谷窟毘沙門堂の境内は神域として古くから殺生禁断地とされています。煙草・飲食の行為はもちろん、犬猫を連れての参拝も禁止。さらには植物の採取をはじめ、葉っぱ1枚持ち帰ることも禁じられているのです。
昔ながらの教えを守り受け継いできた達谷窟さんは、雑誌などの取材を受けても顔写真の掲載は拒否。というのも、「毘沙門様に仕えるのが別當の仕事。公に顔を出すというのは、仏様の先に立つことになりますから」ときっぱり。
「達谷西光寺」は、寺でありながら檀家が1軒もありません。なぜなら、神事にたずさわる都合上、弔事に出てしまうと鳥居をくぐることさえ出来なくなるのです。中世から伝わる神楽など行事も多いのですが、ほとんど非公開なのも同じ理由。「毘沙門様が主で別當は従」という別當達谷西光寺の勤めを、今もしっかりと守り継いでいるのです。
■所在地/岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16
■拝観時間/8:00~17:00(季節によって異なります)
■電話/0191-46-4931
■駐車場/有り
■拝観料/300円(団体割引有り)
■ホームページ
http://www15.ocn.ne.jp/~iwaya/
bisyamondo.html